小説に正解なんてない。もっと気軽に読んでいいと思う。

 

よく、小説を読むにあたって、

 

「どう読んだらいいのかわからない」

「この小説を読んだけど、何が言いたかったかわからない」

「なにがテーマだったかわからない」

 

「だからネットで調べた」

 

という話をよく聞きます。

 

本を読むにあたって、

身構えてしまったり、

「何を言いたいのか」、「何を受け取るのが正解なのか」、「どう読めばいいのか」

 

というふうに「正解」を求めてしまう方が多いんですね。

 

でもわたしは、小説に正解なんてものはなくて、もっと気軽に読んでいいものだと思うんです。

 

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正解を求めてしまうのはなぜか

 

ではなぜわたしたちは、小説に正解を求めてしまうのでしょうか。

 

それはきっとこれまでの教育によるものなのではないかとわたしは思います。

 

 

わたしたちは、学校で「国語」という科目を勉強しますが、その授業やテストでは、

 

「このときのこの登場人物の心情を答えよ」

「この話で作者が何を伝えたかったのかを説明せよ」など、

 

登場人物の心情やこの話を通して伝えたかったことは何か、作者がどんな思いで書いたのか、というように、

 

「正解」を求める問題がほとんどなんですね。

 

 

ですが実際は、その描写を作者が何も意図せずに書いていたとしても「正解」を求めなければならなかったり、作者の意図と違う気持ちが答えとなっていたりすることも多いものです。

 

何が何でも必ず「正解」を、ひとつの基準を、つくってしまっているんです。

 

だからこの本を読んだのならこう感じるのが当たり前だ、こう感じなければおかしい、というように、

必ず小説には、「正解があるはずだ」と思ってしまうんですね。

 

読書におすすめの場所。ある程度雑音のある場所のほうが集中しやすい。

 

 

正解なんてない

 

でも本当は、小説において正解なんてものは存在しないと思うんです。

 

だって、読む人によって今置かれている状況は違うし、これまでの経験、人生はそれぞれ異なります。

 

だからこそ、いろんな感じ方や受け取り方があるし、読むタイミングによっても、何を感じるかなんてその時その時で変わってきます。

 

 

わたしは、きっと本には、正解よりももっと巨大な何か、複雑な根っこのような、道のような、何かが張り巡らされているんじゃないかと思っています。

 

だからこそ、

どこに触れたっていいし、どこを通ったっていい。

どこにも触れなくたっていいし、どこも通らなくたっていい。

 

 

もちろん、作者によっては、「こう受け取ってほしい」というふうに思っている方もいると思います。

ですがほとんどの作者の方というのは、「受け取り方は人それぞれ」というふうに考えている方が多いです。

 

 

生きていく中で、周りと同じふうに生きるのが正解、というふうにあらかじめ正解がある程度決められている人生に比べて、読書には正解がないんです。

 

どんなことを感じてもいいし、その時によって感じ方は変わってもいい、周りと同じである必要なんてない。

 

読書は寛容なんです。

 

だからこそわたしも、読書が好きなのかもしれません。

 

 

 

こんなふうに、読書には正解というものは存在しなくて、人によって、時によって、受け取り方は変わってくるものです。

 

だからこそ、身構えずに、もっと気軽に読んでいいものなんじゃないかな、とわたしは思います。

 

読書の効果。小学生の頃から本を読み続けてきた私の思う5つのメリット。

 

 

ここまで読んでくれてありがとうございました。

 

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