「社会人として」「常識として」って、相手を黙らせるのにすごく便利な言葉だと思う

日々を生活しているとよく、

「社会人としてそれはどうなんだ!」

「常識として考えてみなさい!」

という言葉で怒られてしまったり、注意を受けてしまうことってありますよね。

そしてそれらの言葉によって、傷ついたり落ち込んだり、自分自身を責めてしまったり。

でも私は、これらの言葉って相手を黙らせるのにすごく便利な言葉だよなと感じてしまうんです。

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もともとの認識

まず、どうしてわたしたちはそれほどまでに、それらの言葉に影響を受けてしまうのでしょうか?

それはきっと、「社会人として」「常識として」という言葉に対する、もともとの認識からなのではないかと思います。

わたしたちは、

「社会人として」「常識として」=知っていなければいけないこと、あたりまえのこと、できなければいけないこと、

という認識が強いと思うんです。

だからこそ、それらの言葉を用いて叱責されてしまうことで、

「なんで自分はこんな当たり前のこともできないんだ…」

「なんでこんなことも知らないんだ…」

と、自分自身の無知や未熟さを責めてしまうんですね。

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「社会人として」「常識として」という言葉の持つ強さ

わたしは「社会人として~」「常識として~」という言葉は、すごく強い影響力を持つものだと思うんです。

たとえば、

「わたしは、あいさつはしたほうがいいと思うよ」

よりも、

社会人として、あいさつはすべき」、

そして、

「わたしは、30分前には到着していたほうがいいと思うよ」

よりも、

常識として、30分前には到着しているべき」という言葉のほうが、

心に「グサッ」っと突き刺さってきますよね。

言葉の重みが違ってくるんですね。

「社会人として~」「常識として~」という言葉は、ものすごく強い力を持っているんですね。

人格否定された時の対処法。まず考えるべきこと。

個人か社会全体か

ですがどうしてそんなにも言い方で差が出てしまうのでしょうか。

わたしはそれは、個人を引き合いに出しているか社会全体を引き合いに出しているか、の違いだと思うんです。

「わたしは~思う」というのは、その人個人の認識として、というように個人を引き合いに出しています。

いっぽう、「社会人として~」というのは、社会全体のルールとして、というように

社会全体を引き合いに出されているんですね。

「周りの同世代はみんなちゃんとできているんだ・やっているんだ」というように。

たとえば、

独りの同世代の人を引き合いに出されて、

「彼はできるのに、どうして君はできないんだ」と言われるよりも、

100人くらいの同世代の人を引き合いに出されて、

「彼ら彼女らはみんなできるのに、どうして君だけできないんだ」

と言われるほうが、心に「ずしん」ときますよね。

やはり、「個人」よりも「社会全体」と比較されたほうが、人に与える影響って大きいんです。

こんなふうに、「社会人として」「常識として」という言葉は、人の心に大きな影響力を持っているんです。

それはすなわち、それらの言葉をつけてしまえば、どんなものであっても一度は相手に大きな影響を与えてしまえるものだということです。

もしその考えが、言っている側にとってのみ都合がよくなるもの、その人にとってだけの常識だったとしても、

「それが常識なんだ…」、「自分は間違っていたんだ…」、と思わされてしまうんです。

他人と比較するのは間違い。そもそも、目的地やペースが違う。

おわりに

わたし自身、以前、バイトの面接で、

「体調を崩してしまった際など、当日急に連絡を入れて休んでしまうのは大丈夫でしょうか?」と聞いた際、

「常識としてそれはないでしょ」と言われた経験があります。

そして、「そっか、それが社会の常識なのか…」と思いそうになってしまったことがあります。

(でも後になって考えてみると、体調が悪くても休めないってやっぱちょっとおかしいですよね)

こんなふうに、「社会人として」「常識として」という言葉をひとつ付け足すだけで、こんなにも影響力を持ってしまうもので、

相手を黙らせるのにとても便利な言葉なんです。

だからこそわたしたちは、それらの言葉に惑わされないように日々警戒をしながら生活しなければならないな、と思ってしまうのでした。

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ここまで読んでくれてありがとうございました。

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