みなさんは、
「子どもの頃は楽しかったなぁ」
「あの頃に戻りたいなぁ」
なんて思うことはありませんか?
大人になってからの方が自由にできることも増えるのに、どうして私たちはそう感じてしまうのでしょうか。
たしかに、子どもの頃はお金の面で心配することが必要なかったためといわれればそうなのですが、きっとそれだけではないんじゃないかと私は思います。
そこで今回はそのことについて私の考えを話しみたいと思います。
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数字に縛られてしまうから
「数字」というのは、生活するうえでとても身近なものです。
月日、時間、お金、テストの点数、平均値、合格率、倍率、就職率、離職率、給料、など。
たとえば、
学生では、テストの点数でその人の価値が評価され、
入試や資格試験の際には、合格率や倍率によって志望校や資格を選んだり、点数によって評価される。
就職の際には、就職率、離職率、給料によって企業を評価し、そして点数によって自分も評価される。
そして、大人になれば、給料や勤続年数などによって、周りから評価される。
こんなふうに、「数字」というのは周りからの評価や自分の道を選ぶ際などに、私たちの日常に深く関わっているものです。
ですが、ここでちょっとよく考えてみてください。わたしたちがまだ小さかった頃、数字はそんなにも身近に関わっていたものだったでしょうか。
こんなにも関わっていなかったですよね。
関わっていたとしても、
「遠足の日まであと〇日!」というような、月日だったり、
「遊べるのは〇時まで!」というような、時間くらいだったのではないでしょうか。
こんなふうに、「数字」というのは成長していくにつれて、とても重要な意味を持ってくるようになるものなんです。
たしかに、「数字」というものがあるからこそ、それが基準になったり便利になったりすることもあります。
ですが多くの人は、大人になるにつれて、
常に「数字」というものに、評価されたり、追い回されたり、振り回されたり、
結果的に、数字に縛られてしまっているんじゃないかと私は思うんです。
常識に縛られてしまうから
「社会に出たら、定年まで会社で働き続けるのが常識」
「指定時間よりも前に到着しているのが常識」
「空気を読むのが常識」
「常識を守るのが常識」
など、その社会の中で当たり前のことだとされていることは数多くあります。
そして、それらから外れてしまうと、周りから批判されたり、注意されたり、怒られたり、
「どこかおかしい人」という評価をされてしまうこともある、というのが常識というものです。
これもまた、わたしたちがまだ小さかった頃は、とらわれることのなかったことですよね。
好きな時に好きなことをやったり、
思いついたことはすぐに言葉にしてみたり、
いろんな子に声をかけたり、
あの頃は、常識という言葉自体知らなかった子も多かったのではないでしょうか。
それに、もし常識から外れた行動をしたとしても、「子どもだから」という理由で許されたことも多かったと思います。
ですが、大人に成長するとそうもいきません。常識から外れるということは、いけないことで、批判の対象となってしまうものです。
多くの人は、批判や怒られるというのは避けたいものですよね。
そのため、常識の範囲内でしか行動できなくなってしまうんです。
常識に縛られてしまうんです。
→「社会人として」「常識として」って、相手を黙らせるのにすごく便利な言葉だと思う
肩書に縛られてしまうから
〇〇大卒、〇〇に勤務、医者、弁護士、〇〇免許所持など、
世間では、肩書というのはとても重要なものです。
肩書によって、その人のことを評価したり、その人に対する態度も変わってきます。
特に、肩書のない人や、肩書があいまいな人というのは、否定的にとらわれやすいですよね。
たとえば、フリーターや派遣社員など。
たとえ好きなことを仕事にして、生活できるだけのお金を稼いでいたとしても、肩書があいまいであれば、否定してくる方が多いように。
そのため、「フリーターになってはいけない」、「正社員にならなくちゃ」、「資格を取らなくちゃ」、
などといった思いを抱いてしまう方は多いです。
肩書にとらわれてしまっているんですね。
→人間ほど生きづらさを抱えている動物もいないんじゃないだろうか
おわりに
大人になるにつれ、私たちは気づかないうちにいろんなものに縛られてしまっています。
子どもの頃は自由にできたことも、大人になることでできなくなってしまう。
身動きがしづらくなっているんです。
自由に動けなくなる。
きっとこれが、子どもの頃の方が楽しかったと思う要因の一つなのではないのでしょうか。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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